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よくある心配事を解決
病気の先輩

私がはじめて痔核を切ったのは35,6歳の頃であった。
オリンピック景気に湧き、新幹線が巷の話題をさらった昭和40年前後のことであった。
市川のK病院が入院先だったが、この手術のにがい思い出はいまだに鮮明で、それが近年ときどき訪れる重苦しさ痔疾の症状を我慢し先送りさせた理由でもあった。
しかし、この冬は一段と寒さが尻にひびきK病院で云われた「退院しても10年か15年持てばいい方でしょう」という医師の言葉も思い出され、4月の花見のあとの好季節に手術して貰おうと決断したのだった。
考えてみれば、あれから三十数年、あのころに比べれば、日本は飛躍的に経済は伸びたが、手術はどれほどかわったか、手術を決断したとき、その変化をじっくり比べてみたいという好奇心が脳裏をかすめた。
訪れた病院は肛門の専門病院我孫子の東葛辻仲病院であった。診断した医者は一目みて「三期ですね、ここでは一期、二期は投薬で三期からは手術ということになっています」といって、手術の方法について解説をはじめた。勿論手術には異論はなかった。「これが最近使われている自動吻合器です」直径3.5cm、長さ35cmほどの先端をまるめた円筒が目の前におかれた。良く見ると頭部は先をまるめた円錐形で筒形の本体に対し、長手方向に動くようになっていて、動く頭部と筒の隙間から肛門内の緩んだ粘膜(いぼじ)を筒内に吸い込み、直腸側を幅2-3cmほど挟みこんで、パチンと環状に切りとると同時にホッチキスするように縫合するというのである。この方法は痛みも少なく、患者に恥じらいの少ない体位を選ぶことが出来るし入院期間も一日、二日は短縮できるということであった。
なるほどずいぶん変わったものである。昔は何の説明もなく患者は医師の命ずるまま、まるでまな板の鯉のようなものであった。これからどんな方法で手術を行うのか、その手術にはどんな危険が伴うのか、その危険の確立は何パーセントかの説明などは無く、勿論、患者の恥じらいの少ない体位など考慮の外であった。
だがこの器械を用いて手術をする方法は一回目の手術で多少とも肛門縮小のある人には使えないということで、私は従来どおりの方法でやって貰うほうを選んだ。
しかしそれにしても口腔内より狭い肛門の中でどうやって痔核を手術するのだろう。その疑問には痔の先輩の患者が明快に解説する。「Hさん、心配はいらないよ。なにしろ麻酔をするとね、筋肉が緩むから簡単に腸を出せるのさ、それを靴下のように引っくり返してひろげ、洗濯ばさみであちこち止めて、あとはゆっくり料理するのさ」「終わったあと?終わったあとは丸めて押し込めば終わりさよ」まるで見てきたような素人解説に笑いながらも大筋で間違っていない気がして納得した。
手術の後の話だが、患者のために院長の講話があった。「患者の皆さんは痔を完全に取ってくださいとよく言いますが、必要以上に徹底的に取ることはむしろ危険なのです。肛門のしまりは筋肉だけでは液状の便を完全にくい止めることは出来ません。肛門にはりめぐらされた、血管の微妙な膨張収縮が大きなクッションの役を果たしているのです。」というのである。
痔核は血管に出来た血栓によってうまれるが、手術にあたってはそうした配慮も加味して行われるというわけである。
手術の当日は早朝五時半から下剤2リットルを2時間かけて飲むことを義務づけられた。昨日のうちに剃毛をすませ、大腸スコープによる大腸検査で撮影した、患部を含む四枚の写真が執刀医のもとに届けられていて、手術後は患者に与えられた。剃毛とはもちろん、患部の毛を剃ることであるが昔は尻だけでなく前の毛も剃られた。
若かったから、とても恥ずかしい思いをしたものだが、今は尻の開く紙パンツに履き替え、無理のない姿勢で一分ほどで剃毛を終わり、大浴場でさっぱり出来るようプログラムされている。
四人部屋だったが、肛門専門だけあって、トイレは数も広さもタップリしていてどの部屋の人も患者がトイレでかち合う心配もなく、車椅子のままでも点滴しながらでも段差なく入ることが出来る。
ベッドはすべて自動ベッドで、寝たまま上下や傾きを操作出来、テレビには病院専用のチャンネルがあって、「明日手術予定の患者様は、何時から○○チャンネルをご覧ください。」といった放送で、患者への説明、指導がおこなわれる。ベッドには個別の電話があり、個室でもないのに寝たまま院外と交信出来るのも新しい発見であった。ナースコールしかなかった昔とは大違いである。
私の手術は明日の午前11時と決まり、当日は定刻5分前に搬送車でむかえに来た。
移動しようとすると、ここから先はすべて寝たままでいいという。そのままの姿勢で、滑るようにベッドから搬送車へ、搬送車から手術台へと移される。看護婦さんの腰痛の心配も、手術後の衝撃も格段に軽減されることであろう。
ながながと待たされた工程間の手待ち時間もほとんど無く、何人もの患者がつぎつぎに能率よく処置されていく。
手術台の上で脊髄に麻酔注射を打たれると、ものの数分で腰から下は足の指一つ動かすことのできない無感覚状態となり、予想外の短時間で手術は終わった。切除した肉片は患者が希望すれば見せてから捨てる。
患者の意思がいたるところで尊重され、昔日とは将に覚醒の感である。
術後三時間後から水分の摂取が許され、まず一回目の痛み止めを飲む、そのあとは四時間ごとに二回、都合三回の痛み止めによって、痛みは大幅に軽減された。
半身麻酔が切れたのは手術後十七時間たった夜明の四時頃だったが、昔のようにうめくような痛みはなく、さすがに眠ることはできなかったが、この程度なら、と感謝したい一夜であった。痛みを数量化しようと、我慢できない痛みを10として、各自の主観で度数表示させる試みもすばらしいと思った。私の場合は麻酔が切れた四時頃が5で、その後徐々に下がって七時には3になり、医師の回診する八時半には2に下がっていた。後続の患者も大体回診時には1か2と答えるところを見ると、十分実用価値のある方法に思われた。
手術後の排尿は昔も大変だった。膀胱は一杯なのに放尿ができない苦しみは今も忘れられない体験だったが、今は麻酔の効いているうちに、直径5mm程の導尿管を放出口から膀胱まで差し込み、ベッドに引っ掛けた尿袋にビニールパイプで直接接続し、本人の意思とは無関係にいわば垂れ流しにするのである。
驚いたことに、この一晩の間にだらだらと垂れ流した尿の量は何と2リットルにも及ぶのに驚異の目を見張った。
いづれにせよ導尿管で動けないこの一夜は何とも辛い一夜だった。たまたまその夜、軽い地震があり、はずし方を教わっていない不安が一瞬脳裏をかすめたが、幸い事なくすんでホッとする一幕もあった。
朝七時には悩まされた導尿管もきれいに取り外され、八時半の回診時には自由の効く身になって、あとは化膿止めを入れた点滴で栄養補給することになった。傷ついた肛門はこのことによって使用せずに済むことになる。
点滴中でも今は自由に、吊るした車付き支柱を押してトイレに移動することが出来るのも、患者には著しく苦痛の軽減であった。こうして三食点滴で過ごしたのち、手術後2日目から五分粥が支給された。廊下に聞こえる「食事ですよ。」の声に吸いよせられるように、食堂入口の食膳運搬車の周りに集まり、棚に並んでいるトレーに立てられた自分の名札を探す。
一人一人回復の度合いに応じて内容は異なるが、あらかじめ和食と洋食の好みや避けたいものは申告によって除かれており、極楽に戻った気分で同部屋の人とテーブルを囲む。同病あい憐れむ食卓は急速に親近感をもたらし、同室病室の先輩から聞く情報はそのまま明日の自分を知る案内になった。
三日目になると早くも入浴が許された。
入浴は医師の許可が出た患者にだけ、係の看護婦が入浴時間を割り当て、男女をわけて六名づつ特別な六個のステンレスの浴槽に入浴させる。入浴時間は一人20分。終わってから次の人が入る迄の15分間で清掃と消毒を行なっている。たらいに温水を入れ尻だけ温めていた三十数年前とは雲泥の差である。しかも浴槽内には気泡の発生装置まで設けられ、患部に心地よい泡の刺激をあたえることが出来る。
手術後四日目には早くも普通食が出始めた。痛みも日に日に少なくなるので会話もはずむ。隣に自動吻合器で手術した人もおり、その方は私と同日入院で二日ほど早く退院して行ったが、まだ保険が効かない方法らしい。
この入院で感じたことは、痛みが大幅に緩和され、良く練り上げられた手順で無駄がなく、実に能率よく手術が行われ、至れりつくせりの介護で、病院生活もホテル並の快適さが保たれていることである。
医師も横柄さがなく、懇切に説明し、患者の自尊心を損ねぬよう体位にも気を配り、どの看護婦も真面目で親切で、患者をいたわりながら職務を遂行しているのに感心した。
新聞の三面を賑わす病院の不祥事に、いささか悲観的だった医師や病院への不信感も、今回の入院によって、それはほんの一握りの人達で、日本の社会はそれ程破滅的ではないのではないかと大いに勇気づけられた。
入院して八日目、明日は退院と決まった日、私は早朝に目が覚めた。寝静まった廊下の洗面所の大きな鏡の前で静かに顔を洗いひげを剃った。
屋上に出ると、外はいつの間にか、若葉の萌える季節になっていた。
お尻がすっきりしたせいだろう、こころなしか尻のあたりから、あらたな力がみなぎってくるのを感じた。
私は朝の空気を胸一杯に吸いながら四月の天地に有難うと絶叫したい衝動を覚えた。おわり