痔の散歩道

明暗(夏目漱石)
「明暗」 夏目漱石
 
漱石の死とともに未完成に終ったこの作品は、文字通り漱石文学の総決算で、自然主義に近い客観的態度で人間の醜悪を余りなく描破しながら、しかも漱石が背後に意図したものは、いわゆる「則天去私」という真実の生き方であった。終りの方に現われる清子という女性の影像がそれを暗示している。大正5年作。

 昭和五十九年十月三十日 改訂二十一版発行 角川文庫 「明暗」夏目漱石 のカバーから引用


 この小説は、「
」の診察の場面から始まります。そして、入院、手術などを背景として物語が進行していきます。漱石自身があり、手術を2回しております。漱石のは、の中でも
ろうという疾患でした。この痔ろうに関する体験をこの小説「明暗」、そして日記、書簡、俳句などに残しています。
 漱石は、なぜかこの「明暗」では、又は痔ろうという病名を使用せず、単に「病気」と表記しています。
 以下、同上角川文庫「明暗」から診察と手術の場面のみを引用します。(長い引用になります。)
 
なお、この夏目漱石の
については本「痔の散歩道」の「日記・書簡」と「痔に悩んだ人々@」にも記述しています。こちらも参照してください。
 

■「明暗」
冒頭(診察場面)


 一
 医者は探《さぐ》りを入れたあとで、手術台の上から津田《つだ》をおろした※。
 「やっぱり穴が腸まで続いているんでした。このまえ探った時は、途中に瘢痕《はんこん》※の隆起があったので、ついそこが行き留まりだとばかり思って、ああ言ったんですが、今日《き
よう》疎通をよくするために、そいつをがりがりかき落してみると、まだ奥があるんです」
 「そうしてそれが腸まで続いているんですか」
 「そうです。五分《ぶ》ぐらいだと思っていたのが約一寸ほどあるんです」
 津田の顔には苦笑のうちに淡く盛り上げられた失望の色が見えた。医者は白いだぶだぶした上着の前に両手を組み合わせたまま、ちょっと首を傾けた。その様子が「お気の毒ですが事実だからしかたがありません。医者は自分の職業に対してうそをつくわけにゆかないんですから」という意味に受け取れた。
 津田は無言のまま帯を締め直して、椅子《いす》の背に投げ掛けられた袴《はかま》を取り上げながらまた医者の方を向いた。
 「腸まで続いているとすると、なおりっこないんですか」
 「そんなことはありません」
 医者は活《かつぱつ ■=さんずいに》にまた無雑作に津田の言葉を否定した。あわせて彼の気分をも否定するごとくに。
 「ただ今までのように穴の掃除《そうじ》ばかりしていてはだめなんです。それじゃいつまでたっても肉の上りこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術を一思いにやるよりほかにしかたがありませんね」
 「根本的の治療というと」
 「切開です。切開して穴と腸といっしょにしてしまうんです。すると天然自然割《さ》かれた面の両側が癒着《ゆちやく》してきますから、まあ本式になおるようになるんです」
 津田は黙ってうなずいた。彼のそばには南側の窓下に据えられたテーブルの上に一台の顕微鏡が載っていた。医者と懇意な彼はさっき診察所へはいった時、物珍らしさに、それをのぞかせてもらったのである。その時八百五十倍の鏡の底に映ったものは、まるで図に撮影《と》ったようにあざやかに見える着色の葡萄状《ぶどうじよう》の細菌であった。
 津田は袴をはいてしまって、そのテーブルの上に置いた皮の紙入を取り上げた時、ふとこの細菌のことを思い出した。すると連想が急に彼の胸を不安にした。診察所を出るべく紙入を懐《ふところ》に収めた彼はすでに出ようとしてまた躊躇《ちゆうちよ》した。
 「もし結核性のものだとすると、たとい今おっしゃったような根本的な手術をして、細い溝《みぞ》を全部腸の方へ切り開いてしまってもなおらないんでしょう」
 「結核性ならだめ」です。それからそれへと穴を掘って奥の方へ進んでゆくんだから、口元だけ治療したって役にゃ立ちません」
 津田は思わず眉《まゆ》を寄せた。
 「私《わたし》のは結核性じゃないんですか」
 「いえ、結核性じゃありません」
 津田は相手の言葉にどれほどの真実さがあるかを確かめようとして、ちょっと目を医者の上に据えた。医者は動かなかった。
 「どうしてそれがわかるんですか。ただの診断でわかるんですか」
 「ええ。診察《み》た様子でわかります」
 その時看護婦が津田のあとに回った患者の名前を室《へや》の出口に立って呼んだ。待ち構えていたその患者はすぐ津田の背後に現われた。津田は早く退却しなければならなくなった。
 「じゃいつその根本的手術をやっていただけるでしょう」
 「いつでも。貴方《あなた》の御都合のいい時でようござんす」
 津田は自分の都合をよく考えてから日取りをきめることにして室外に出た。

原文注釈


※医者は探りを入れた後で・・・・・・
漱石は明治四十四年(一九一一)、大阪・和歌山などを講演旅行後九月十四日帰京、神田区錦町一丁目にあった佐藤病院での手術を受け、翌年春まで通院、さらにその年の九月二十六日から十月二日まで再手術のためこの病院に入院した。明治四十四年十一月から大正元年(一九一二)十月までの日記には、この時の病院通いや病院生活で聞いた話についての詳しいメモがあり、それらがこの「明暗」の材料として用いられている。

※瘢痕 
傷などが治癒したあと。


(手術場面)
 
 四二
 「リチネ※はお飲みでしたろうね」
 医者は糊《のり》の強い洗い立ての白い手術着をごわごわさせながら津田にきいた。
 「飲みましたが思ったほど効目《ききめ》がないようでした」
 昨日《きのう》の津田にはリチネの効目を気にするだけの暇さえなかった。それからそれへと忙しく心を使わせられた彼がこの下剤から受けた影響は、ほとんど精神的に零《ゼロ》であったのみならず、生理的にも案外微弱であった。
 「じゃもう一度浣腸《かんちよう》しましょう」
 浣腸の結果も十分でなかった。
 津田はそれなり手術台に上って仰向けに寝た。冷たい防水布がじかに皮膚に触れた時、彼は思わず冷やりとした。堅い括《くく》り枕《まくら》に着けた彼の頭とは反対の方角からばかり光線が差し込むので、彼の目は明かりに向かって寝る人のように、少しも落ちつけなかった。彼は何度も瞬《まばた》きをして、何度も天井を見直した。すると看護婦が手術の器械を入れたニッケル製の四角な浅い盆みたようなものを持って彼の横を通ったので、白い金属製の光がちらちらと動いた。仰向けに寝ている彼には、それが自分の目をかすめて通り過ぎるとしか思われなかった。見てならない気味の悪いものを、ことさらにぬすみ見たのだという心持がなおのことつのった。その時表の方で鳴る電話のベルが突然彼の耳に響いた。彼は今まで忘れていたお延のことを急に思い出した。彼女の岡本へ掛けた用事がやっと済んだ時に、彼の療治はようやく始まったのである。
 「コカインだけでやります。なにたいして痛いことはないでしょう。もし、注射がだめだったら、奥の方へ薬を吹き込みながら進んでゆくつもりです。それでたぶんできそうですから」
 局部を消毒しながらこんなことを言う医者の言葉を、津田は恐ろしいようなまたなんでもないような一種の心持で聞いた。
 局部魔睡《きょくぶますい》は都合よくいった。まじまじと天井をながめている彼は、ほとんど自分の腰から下に、どんな大事件が起こっているか知らなかった。ただ時々自分の肉体の一部に、遠い所で誰《だれ》かが圧迫を加えているような気がするだけであった。鈍い抵抗がそこに感ぜられた。
 「どんなです。痛かないでしょう」
 医者の質問には十分の自信があった。津田は天井を見ながら答えた。
 「痛かありません。しかし重い感じだけはあります」
 その重い感じというのを、どう言い現わしていいか、彼には適当な言葉がなかった。無神経な地面が人間の手で掘り割られる時、ひょっとしたらこんな感じを起こしはしまいかという空想が、ひょっくり彼の頭に浮かんだ。
 「どうも妙な感じです。説明のできないような」
 「そうですか。我慢できますか」
 途中で脳貧血でも起こされては困ると思ったらしい医者の言葉つきが、なんでもない彼をかえって不安にした。こういう場合予防のために葡萄酒《ぶどうしゆ》などを飲まされるものかどうか彼はまったく知らなかったが、なにしろ特別の手当を受けることはいやであった。
 「大丈夫です」
 「そうですか。もうじきです」
 こういう会話を患者と取り換わせながら、間断なく手を働かせている医者の態度には、熟練からのみ来る手際《てぎわ》がひらめいていそうに思われた。けれども手術は彼の言葉どおりそう早くは片付かなかった。
 切れ物の皿《さら》に当たって鳴る音が時々した。鋏《はさみ》で肉をじょきじょき切るような響きが、強く誇張されて鼓膜を威嚇《いかく》した。津田はそのたびにガーゼでふき取《と》られなければならない赤い血潮の色を、想像の目で腥《なまぐ》さそうにながめた。じっと寝かされている彼の神経はじっとしているのが苦になるほど緊張してきた。むずかゆい虫のようなものが、彼の身体《からだ》を不安にするために、気味悪く血管の中をはい回った。
 彼は、大きな目をあいて天井を見た。その天井の上にはきれいに着飾ったお延がいた。そのお延が今なにを考えているか、なにをしているか、彼にはまるでわからなかった。彼は下から大きな声を出して、彼女を呼んでみたくなった。すると足の方で医者の声がした。
 「やっと済みました」
 むやみにガーゼを詰め込まれる、こそばゆい感じのしたあとで、医者はまた言った。
 「瘢痕《はんこん》が案外堅いんで、出血の恐れがありますから、当分じっとしていてください」
 最後の注意とともに、津田はようやく手術台からおろされた。


※リチネ Ricinus(ラテン語)。ヒマシ油。下剤の一種。当時、薬局方による薬品名はラテン語であった。

同上 「明暗」から全文引用。
《 》内は、原文ではルビ。一部、原文と表記が異なるところがあります。


なお、肛門科医の衣笠昭氏は、この夏目漱石の診察・手術に関し、日本大腸肛門病学会誌で次のように記述しています。(こちらも、長い引用になります。)

 漱石は明治44年(1911)9月14日、講演旅行より帰京して神田錦町にあった佐藤医院で痔の手術を受けたという。この手術は
肛門周囲膿瘍の切開であろう。その後翌年の9月に入院し、痔瘻の手術を受けたとされる。
 この経験を基にして「明暗」には主人公が
痔瘻の診断・手術を受け、術後の状況が細かく描写されており、明治後期より大正時代の手術がどのようなものであったかを推察できるので、その概略を解釈してみることとする。
 「明暗」の第1章の冒頭では主人公津田が
痔瘻の診断を受けるところから始まる。医師は診察の結果を説明し、
痔瘻の治療法についての話をしている。『ただ今のように穴の掃除ばかりしていては駄目なんです。それじゃいつまで経っても肉の上がりっこはないから、今度は治療法を変えて根本的の手術をひと思いにやるよりほかに仕方がありませんね』『切開です。切開して腸と穴とをいっしょにしてしまうんです。すると天然自然割かれた面の両側が癒着して来ますから、まあ本式に癒るようになるんです。』要するに切開解放術式の説明をしているが、当時痔瘻は結核であるとの説が流布されており、また実際に結核性痔瘻が多かったであろう。主人公はこの点を質問しているが、医師は結核性ではないと断言し現在でいうインフォームド コンセントを行っている。
 手術当日主人公は手術台に上り、仰向けに寝た。体位は恐らく砕石位であったであろう。『コカインだけでやります。なに大して痛い事はないでしょう。もし注射が駄目だったり、奥の方へ薬を吹き込みながら進んで行くつもりです。それで多分できそうですから』局所麻酔はよく効き、医師の質問に対し『痛かありません。しかし重い感じはあります』と答えている。手術は約28分で終了した。恐らく
低位筋間痔瘻であろう。手術方法は単純切開で、瘻管壁を掻爬したものと思われる。
 第5病日には出血も止まりガーゼを全抜去し、手術後1週間で退院した。
 この「明暗」の文学的評価はさておき、漱石自身のこのような体験を通じて、医師ではない漱石の主観的な記述であるにせよ明治後期より大正時代にかけての
痔瘻手術の様相を判断することができる。


「わが国古来よりの肛門疾患治療の変遷(2) ─明治・大正時代より昭和時代中期まで─」 衣笠昭 日本大腸肛門病会誌 第53巻第7号 2000年7月 から引用


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