痔の散歩道 痔という文化

■[著者] 宮本 輝

一九四七年、神戸市生まれ。追手門学院大学文学部卒。一九七七年、「泥の河」で太宰治賞を受賞し、文壇デビュー。翌年、「螢川」で芥川龍之介賞受賞。一九八七年、『優駿』で吉川英治文学賞受賞。二〇一〇年、『骸骨ビルの庭』で司馬遼太郎賞受賞。不朽の青春小説と謳われる『青が散る』、百万人を超える読者に読み継がれている『錦繍』、阪神・淡路大震災の自らの体験から紡ぎ出された傑作長編『森のなかの海』など純文学、大衆小説の枠組みを超える作品を著す日本を代表する小説家。著書は他に、『約束の冬』『避暑地の猫』『ドナウの旅人』『葡萄と郷愁』『オレンジの壺』『にぎやかな天地』ライフワークとしての「流転の海」シリーズなど多数。編著に『わかれの船』『父のことば』『父の目方』など。

光文社「三千枚の金貨」宮本輝著 二〇一〇年七月二十五日 初版第一刷発行 の奥付から引用

■三千枚の金貨のカバーから
どこかに金貨が埋められているいまの時代に大きな存在感を示す宮本文学の凄み!桜の木の下だという。働き盛りの男三人と彼らより一回り年下の女性が手を結んだ。その金貨が語る膨大な物語とは。いま自分を含めて人間どもの心が弱くなっている時代。脆弱な心が世界中にひしめいている。心を強くするにはどうしたらいいのか。真の心の強さとは。」

同上、光文社「三千枚の金貨 上 」のカバーから引用

大きな人間とは。ページを操る手を止めさずに感動へと導く宮本文学の極み!悲しいこと、辛いこと、腹立たしいこと・・・・・・。現象に揺さぶられずに人としての喜びに生き、おおらかに歩める「おとなの心」。その「宝探し」を四人の男女の胸躍る道程に描く。人生って、大きな流れなんだな。平々凡々とした日常の連続に見えるけど、じつはそうじゃないんだ。その流れのなかで何かが刻々と変化してる。

同上、光文社「三千枚の金貨 下 」のカバーから引用


■三千枚の金貨本文

」と書かれている箇所を一部抜粋します。

(略)

 桑田の言葉に、それと同じ湯豆腐を食べたくなったが、三日前、イスラマバードで痛みだした部分の痛みがふいに烈しくなって、光生は尻を椅子から浮かせた。
 他人にはあまり明かしたくなかったが、客は自分ひとりだけだし、沙都は三年前まで都内の大病院の正看護師だったからと思い、
「俺、この旅で、どうも
ってやつにかかったみたいなんだ。痛くて痛くて、カラチからの飛行機のなかで、つらかったのなんのって・・・・・・」
 そう光生が言うと、
?お尻にできる?」
 沙都は訊き返し、それならダイキリなんか飲んではいけないと言った。
「たぶん、これが
というやつじゃないかと思うんだ。俺はいままでってやつとは無縁だったからね」
「指でさわるとか、鏡に映して見てみた?」
「うん、ときどき。でも、そもそも
とはいかなるものかっていう体験による知識がないから」
「血は出る?」
「出ない」
「肛門にぴょこんと突き出たものがある?」
 元看護師にグラスを取りあげられてしまわないうちにと、光生はカクテルグラスを両手で持ってダイキリを飲んだ。
「いや、べつに突起物のようなものもないんだ。指でさわって調べてると、どうも肛門が痛いんじゃなくて、その周りが痛むって感じなんだよね」
 謎めいたエキゾチズムを持つ二十九歳の女の口から何のためらいもなく肛門という言葉が出るとは、さすがは元正看護師、と感心しながら光生が思った途端、
「塚口肛門科って医院があるから、すぐにそこで診てもらったほうがいいわ。いまから電話するから」
「いま?ちょっと待ってくれよ。俺は長い砂漠の旅から日本に帰って来たばっかりなんだぜ。一日か二日、ちょっと様子を見てから・・・・・・」
「それ、たぶん
痔瘻《じろう》よ。正しくは肛門周囲膿瘍。下手をしたら命にかかわるわよ」
「おどかすなよ。それって、癌の一種なの?」
「癌じゃないわ」
 沙都は首を横に振りながら微笑み、
「患部を見ればわかるんだけど、私に見せるの、いやでしょう?」
 と言った。
「見たい?」
 光生の言葉に、沙都は少し目元を赤らめて笑い、
「塚口先生に電話するから待ってて。病院はここからタクシーで十分くらいのとこだから」
 と言って受話器を持った。
「ちょっと待ってくれよ」

(略)

「いや、俺、家に帰るよ。その、つまりだなア、心構えができていないんだよ。見も知らない人に自分の尻の穴を見せるなんて、そのための心構えなしではだなア・・・・・・」

(略)

 有無を言わせないといった表情で沙都は光生の腕をつかんだ。
「肛門科の病気は肛門科。これは鉄則なの。餅は餅屋ってことね。普通の外科に行ったら、完治に一ヵ月はかかるけど、塚口先生は、
痔瘻にかけては日本では屈指の名医なの」

(略)

 光生より少し年長の、四十五、六歳かと思える塚口医師は、小さな聞き取りにくい声で、ベッドに横向きになるよう促し、
「あのう、ズボンと下着も降ろして下さい」
 と言い、細いガラス管のようなものを光生の肛門に入れた。
「ああ、穴があいてますね。
痔瘻ですね。でも穴は外のほうに道を作ってます。よかったですね」
 斉木はその意味がわからず、首をねじって塚口医師を見やった。
痔瘻の穴は、つまり蟻の巣を想像していただくとわかりやすいんです。蟻の巣の通路は何本もありますでしょう? そういう痔瘻もあるんです。斉木さんのは一本道でしょうね、ええ、そう思います。穴が腸のほうへと進んでしまったら、もううちの病院では処置できません。開腹手術をしなければいけませんからね。でも斉木さんの穴は、外のほうへ向かって延びてます。外というのは、つまりこっちの方向です」

(略)

「じゃあ、きょうはまず排膿のための処置をします。膿を患部に溜めたまま手術はできませんので」

(略)

「排膿の始まりますと下着が汚れます。ガーゼを絆創膏で貼るんですが、お仕事をなさってると外れやすいので、そんなときは生理用ナプキンがいちばんいいんです」
「生理用ナプキン?」
 光生は思わず大声で訊き直した。

(略)
 
 光生はベッドに横向きに寝たまま社に電話をかけ、小声で間宮健之介に事のいきさつを説明した。
痔瘻? 俺の爺さん、痔瘻で死んだんだよ」
 と間宮は体格にそぐわない細い声で言った。

(略)

「痛い。痛いな。痛くなってきたな」
 そっと臀部を動かしながら光生はつぶやき、帰ってきた娘の茉莉《まり》の声を寝室のドア越しに聞いた。
「えっ! トトさま、
なの? やだなア、不潔だよねエ」
 茉莉が父親をトトさま、母親をカカさまと呼ぶようになったのは中学生になったときだった。

(略)

 これは痛み止めの坐薬が必要だし、食後には抗生物質も服まなければならないと光生は思った。
痔瘻って、ただのじゃないのね。根治手術の方法を読んで、びっくりしちゃった」
 と祐子は言い、台所で読んだらしい家庭医学のぶ厚い本を持ってきた。
「盲腸の手術みたいに、脊髄に麻酔注射をして、肛門の括約筋を切って、
痔瘻の穴をくりぬいて・・・・・・。そうしないと完治しないんだって。最低でも一週間は入院しなきゃあいけないのよ」

(略)

「とにかく、俺が
痔瘻で現在只今もひどいめに遭ってるって告白したらだなア、出てくる出てくる、隠れ痔主が」

(略)

「夏目漱石も
痔瘻で苦しみました。そのストレスが胃に穴をあけて、大量の吐血につながったんです。松尾芭蕉も痔瘻で命を落としたんです。芭蕉の時代も漱石の時代も、抗生物質なんかありませんから、どんな治療を試みたか・・・・・・。想像するに、相当な荒療治をする以外にないと思うんです」
「荒療治って、どんな?」
「針金のようなものを火で真っ赤に焼いて、それで瘻孔を貫きます。火傷をさせるわけです。膿が溜まってる箇所はメス似た刀でえぐり取ります。でも、それが瘻孔が一本の場合のみ有効で、何本もあったら難しいですね。その手術は大変な痛みを伴うはずです」

(略)


《 》内は、原文ではルビ、原文と表記が違うところがあります。


同上、光文社「三千枚の金貨 上、下 」から引用


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