「当世病気道楽」
・・・・・・さて、病気である。このところ、いろいろな趣味を持つ御人が多いようだが、病気を趣味にすることこそ究極の愉しみといえるだろう。病気を敵視し、憎み、戦うばかりでなく、冷静に観察し、いっそこれと親しむ。ヒトの進化はここまで来たのだ!! 水虫も腹痛も脱毛症もガンだって愉しめる!? 別役流病気を趣味にする法。(解説 三輪和雄)
別役実
1937年中国・旧満州生まれ。
早稲田大学中退。劇作家。「マッチ売りの少女」「赤い鳥の居る風景」で岸田戯曲賞受賞。「不思議の国のアリス」「街と飛行船」で紀伊国屋演芸賞受賞。「諸国を遍歴する二人の騎士の物語」で読売文学賞受賞。
つねに演劇界に新風を吹き込む演劇活動とともに、童話やエッセイ、評論など多彩な著作でも知られる。著書に『犯罪症候群』『別役実の人体カタログ』などがある。
ちくま文庫「当世病気道楽」別役実から引用
■序 病気の時代
(この諧謔に満ちた本を読んでいると、「うそー」「ほんとー」という言葉がまず浮かびます。しかし、鋭い警句が散りばめられ、その論理(「詭弁」?)に納得してしまいます。
この本では、風邪、腹痛、花粉症、歯痛、水虫、梅毒、不眠症、しゃっくり、すり傷、寡黙症、馬鹿などの35の病気?が取り上げられています。痔は、「序」と「最後」に登場しています。
以下、一部抜粋させてもらいます。)
(著者が学校卒業後十数年会っていない友人に偶然出会った。その男は、会社の帰りにいつも公園で時間をつぶしていた。人生に絶望しているようであった。それから二、三年後に駅のホームで会った。)
(略)
私は、その時とは見違えるように活気に充ち、晴れやかになった男の顔を見ながら聞いてみた。「いやあ、もうあんなことはしていられなくなったんだ。実はね、あのころあんなことしていたのが悪かったかもしれないよ。痔になってしまったんだ。「痔に?」「そうなんだ」
(略)
それから男は、電車が停る度にどっと押し寄せる人の群れに、もまれたり突きとばされたりしながら、私があからさまに迷惑そうな顔をしてみせたにもかかわらず、目を輝かせ、口からツバを飛ばして、彼がその時かかりつつあった「痔」の症状を、微に入り細をうがって話し続けた。そして、恰も人生の勝利者のように、肩をそびやかして帰って行ったのである。会社が終わったら直ちに帰宅するのが、一家の主人にとっての当然の権利であるかのように。
「痔」である。「痔」が、彼の人生に活気をもたらし、「生きていること」に根拠を与えたのだ。もちろん、さほど思いがけないことではない。「痔」とか「水虫」とかいうものは決して人を殺さないから、かつて《法定伝染病》がその栄光をほしいままにした当時にあっては、それにかかっていることを敢えて口にするのも潔しとしないという種類のものだったが、すべての「病気」が堕落してしまった今日、逆にその点が評価されはじめているのである。
何よりもその、治るでも治らないでもないという優柔不断ぶりが、「病気」というものを持続的に確かめ、それによって末長く鼓舞され続けようという現代の好みにあっている。「アッ」という間に駆け抜けて、致命的な損害をもたらす、というものではないから、かなりの素人でも、それに対する手練手管を養い、楽しむ術を見つけ出す時間的余裕があるというわけである。しかも、ほんのちょっとした努力で簡単にかかることが出来、患者も多いから、お互いの苦衷を慰め合う相手にもこと欠かない。「痔」持ち同士が、それぞれの症状について話しはじめたら、「水をかけてもやむものではない」と、古来より中国ではいわれている。
(略)
■「痔」
実のところ、痔をここで問題にすることについては、いささかきおくれがある。数ある「病気道楽」の中でも、「痔道楽」にはとかく評判があって、その間のいきさつを知っているものは誰でも、「あれだけは放っといた方がいいよ」と常に言い交わし、関わりあいになるまいと心掛けているのである。もちろん、いきさつを更によく知っているものは、「放っとく」だけでは足りないとすら、考えているであろう。
(略)
ところで、こうしたいきさつに通じていないものは、当然ながら「どうして痔道楽は、『じ』という音に対して、これほど敏感に、そして過激に反応をするのか」という問題を抱かれるであろう。「どうして身動きもならないほどギッシリ詰まった聴衆をかきわけて演壇に近づいたり、赤信号であるにもかかわらず対岸の主婦に近づこうとしたりするのか」と・・・・・・。もっともな疑問である。しかし、その「答え」は極めて単純で、且つわかりやすい。言ってみれば彼等は、ただ「痔」が話題になっている人々の間に割り込み、そこで彼等自身の「痔の症状」について、話したいだけなのだ。「なら、聞いてやればいいじゃないか」と、素人はすぐ簡単にそう言う。しかし、問題がその程度のことで解決するなら、誰もこれほど「痔道楽」を持て余したりしない。「じゃ、聞いてみろよ」と、事情通はそう反応するであろう。そして、一度その話を聞いた誰もが、「聞いてやる」ことが、決して解決につながらないということを、致命的に理解するに違いない。「聞いてやる」ことが出来るならいいのである。「聞いてやる」ことが出来るなら、それは解決になるかもしれないが、実情は、とても「聞いてやる」ことなんか出来ないのであり、だから解決にはならない、ということである。
(略)
誰でもが知っているように、痔というのは尻の病気である。従って当然ながらその話は、「汚く」なることになる。それも、思い切って「汚く」なるのである。その上、これが一番問題となることであるが、「痔道楽」はすべてその話が「汚い」ことに喜びを感じ、出来得れば、「もっと汚く」したいと常に心掛けているふしがあるのだ。
(略)
問題は、「痔道楽」は何故話したがるのか、ということであろう。もちろん、他の「病気道楽」においても、話すことに「喜び」を見出す傾向がないといは言えない。しかし、ここが肝心な点であるが、他の「病気道楽」が話すのは、ほぼどう同病者に限られているのである。素人に話すことは、病気の種類にもよるが、何となくはばかれるものがあるのであろう。ところが、「痔道楽」だけは、言うまでもなく同病者同士でも話すが、極めてあけすけに素人にも話すのであり、その点で何のこだわりも抱いていないのである。
(略)
言ってみれば「痔道楽」は、その病気の特殊性にもかかわらず、実に天真爛漫なのだ。内密に、同病者同士で密かに楽しもうというところがない。
(略)
だとすれば彼等がそれについてしゃべりまくるのは、症状を言葉に変えて放出している、ということになる。そうとでも考えなければ、この彼等の熱狂的な露出癖は、説明出来ないということであろう。
もうひとつ、この「痔道楽」のおしゃべりを説明するものとして、「痔持ちはしゃべることで伝染す」という言葉がある。
(略)
もちろん、伝染したところでどうなるものでもないと我々は考えるが、彼等に言わせると「他人に伝染してやったとわかると、半分治ったような気分になる」というのである。
教訓
痔というものは、肛門部に出来る潰瘍のことであるが、「痔道楽」は時に「あなたの痔はどこです」というようなことを、聞いてくる場合がある。これに対して、「肛門に決まっているじゃないか」などと答えたら、あなたは全くの素人と思われてしまう。痔は確かに肛門にあるのであるが、練達者はその肛門を「円」と考え、あお向けに寝てその「円」のどこに潰瘍があるかを、時計の文字盤の位置で示すのである。従って知りあいの「痔持ち」に「どこだい」と聞いて、彼が「三時だよ」と答えてきたら、その「痔持ち」はかなりのものと見なしていい。更に「三時三二分だよ」と分まで細かく言ってきたら、それはもう超のつくベテランである。
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