書簡は主として「妻への手紙」(『チェーホフ全集』第十五巻、中央公論社)のうち一九〇〇年一月から一九〇〇四年四月までのもの

痔疾について
チェーホフの伝記を読むと、彼が少年時代に二度ほど腹膜炎を患い、それ以来痔を悪くしたと書かれている(E・トリオレ著『チェーホフ』岩波書店)。だとすればこの痔疾は、彼の持病のようなものであって、それが長い経過のうちに、よくなったり、悪くなったりしながら、晩年には慢性結核性痔瘻に移行したのではないかと推測される。したがってこの痔疾についての記述は、書簡のところどころで出会うことになる。

一九〇〇年度
七月七日付のヤルタからゴーリキー宛の書簡のなかに、「また手術(痔)をしにモスクワへ行かなければなりません。」という記述がある。それからしばらくたって、やはりゴーキリー宛に、「僕の健康は回復しました。(中略)夏じゅうずっとあったむずがゆさを肛門に感じないのは、とても愉快です。咳は出ず、もう肉も食べています。」と書いている(十月十六日付、ヤルタ)。一九〇〇年度には、痔疾に関する件数は「有」一件(〇・五%)、「無」一件(〇・五%)となっている。

一九〇一年度
この年の痔疾についての記述は、ただ一件のみで、それは次のクニッペル宛の書簡である。「可愛い子犬さん、僕は生きています、回復期にある人間の状態において可能な限り、健康です。衰弱して、じりじりして、何もしないでいる。痔が起こっている。要するに、こんな夫を君が持ったことは、ただただ慶賀のほかはない。」などユーモラスに書いている。(十二月十五日付、ヤルタ)。
一九〇一年度には、痔疾に関する記述は、この一件(〇・五%)のみである。

一九〇二年度は、痔疾に関する記述は一件もなかった。

一九〇三年度
この年の初めには、クニッペル宛の手紙に、痔についての記述がある。「今年の冬は、どうやらほとんど喀血がなかった。痔の惨事も一回もなかった。」(一月二十八日付、ヤルタ)ところがそれから二ヶ月ほどしてから、やはりクニッペル宛の手紙に、「冬じゅう痔が起こらなかったのに、今日の僕は正真正銘の九等官殿だ(中略)ああいう短篇【『いいなずけ』】は、もう何度も書いた」。だから読んでも新味はありませんよ。」というのがある(三月二十三日付、ヤルタ)。この手紙のなかの九等官というのは、坐りっぱなしの小役人のことで、そのために痔疾になり易いのを揶揄したものである。したがって、一九〇三年度に痔疾は二件(〇・九%)で、「有」一件(〇・五%)、「無」一件(〇・五%)となっている。

一九〇四年度は痔疾についての記述はどこにも見あたらなかった。
痔疾を総括すると、総件数は五件(ニ・三%)で、そのうち「有」三件(一・四%)、「無」二件(〇・九%)であった。

著者紹介 近藤庸人(こんどう・つねんど)1909年1月東京に生まれる。平壌医学専門学校卒(1935年3月)。名古屋帝国大学医学部衛生学教室に入学(1938年3月)。1941年7月応召、南方戦線従軍。1946年5月帰還、1951年8月東京で産婦人科医院開業、1972年5月から神奈川県予防医学協会勤務。旧ソ連時代のロシアを3回たずね、ヤルタ、サハリンなどチェーホフゆかりの地をまわる。

竜脳:竜脳樹の樹液からとった結晶。

「チェーホフの晩年・その病歴について」  近藤庸人 著 新読書社から引用