(略)

僕は十分とたたないうちにひとり又往来を歩いていつた。アスファルトの上に落ちた紙屑は時々僕等人間の顔のやうにも見えないことはなかつた。すると向うから断髪にした女が一人通りかかつた。彼女は遠目にも美しかつた。けれども目の前へ来たのを見ると、小皺のある上に醜い顔をしてゐた。のみならず妊娠してゐるらしかつた。僕は思はず顔をそむけ、広い横町を曲がつて行つた。が、暫らく歩いてゐるうちに痔(ぢ)の痛みを感じ出した。それは僕には坐浴より外に癒(いや)すことの出来ない痛みだつた。
「坐浴、−ベエトオヴェンもやはり坐浴をしてゐた。・・・・・・」
坐浴に使ふ硫黄(いわう)の匂ひは忽ち僕の鼻を襲ひ出した。しかし勿論往来にはどこにも硫黄は見えなかつた。僕はもう一度紙屑の薔薇の花を思ひ出しながら、努めてしつかりと歩いて行つた。

(略)

(昭和二年、遺稿)

「筑摩現代文学体系24 芥川龍之介集 筑摩書房」から全文引用
原文と異なる表記があります。