大正10(1921)年
■1008 9月8日 薄田泣菫 田端から
拝啓 原稿おくれがちにて恐縮仕ります電報料ばかりでも社の負担がふえた訣ですしかし何分小生の胃腸直らずその為痔まで病み出し床上に机を据ゑて書き居る次第この頃では痩躯一層痩せて蟷螂の如くなつてゐますそれ故上海遊記と次の蘇杭遊記との間に一週間息を入れさせて頂きます(略)
餓 鬼
(略)
《薄田泣菫(1877−1945)詩人・随筆家、大阪毎日新聞社学芸部長、本名淳介。岡山県の生まれ。岡山中学中退。1899年の詩集『暮笛集』で詩人として認められ、以後『公孫樹下にたちて』『雷神の夢』などの力作を発表、島崎藤村引退後の詩壇の第一人者となる。大阪毎日新聞社時代には「茶話」で好評を博し、随筆家としても一家を成した。
■1009 9月13日 下島勲 下島先生侍史 十三日 芥川龍之介
きよしへ催促を出しましたが今以て題句をくれません故それだけは後に組ませる事としまづ原稿を刷らせてしまふ事にしました右一存にとり計らひました故あしからず御承知下さいこの旨参上の上申し上ぐ可きの所この間の下痢以来痔と云ふものを知り、恰も阿修羅百臂の刀刃一時に便門を裂くが如き目にあひ居り候へば書面にて御免蒙ります
秋風や尻ただれたる女郎蜘蛛
九月十三日 了中庵主
空谷先生
「きよし」:高浜虚子のこと
空谷先生:下島勲(1870−1947)。医者・俳人・随筆家。号空谷。長野県の生まれ。慈恵医学校卒。苦学して軍医となり、日清・日露両戦争に従軍、のち東京田端で開業、同じ田畑に住む芥川の主治医となる。書画に関心が深く、能書家でもあった。著書に『人犬墨』『芥川龍之介の回想』などがある。
■1015 9月24日 下島勲 田端から
拝啓 いちじく沢山頂戴致し難有く御礼申上候
即興
これやこの子規のみことが痔をわぶとうまらに食せし白無花果ぞ
※井月も痔をし病めらば句にかへて食しけむものをこれの無花果
頓首
九月廿四日
井月:井月上人 井上井月(生年未詳−一八八七年)。俳人。本名、井上勝造(克三)あるいは勝之進。もと長岡藩士ともいう。若くして江戸を出て信州各地を放浪し、伊那で没した。
大正10(1921)年
■1534 1月21日 小穴隆一 (略)
(略)
不眠は相かわらず。胃はまだ痛む。小康を得たのは痔だけ。実際くさくさしてしまふ。
(略)
小穴隆一(1894−1928): 洋画家・俳人。俳号一遊亭。長崎県の生まれ。開成中学校中退。太平洋画家に通い、二科会などに属して修業する。1919年俳句雑誌「海紅」に載せた雄鶏の挿絵が機縁となって芥川と知り合い、以後終生の交わりを結ぶ。挿絵画家として芥川や坪田譲治の書物を扱う。芥川を回想した随筆に『二つの絵』がある。
■1569 渡辺庫輔 田端から
冠省、君に手紙書かずにゐてすまない。しかしその後あひかわらず神経衰弱はひどし、胃腸は悪いし、痔にも悩まされて鬱々と日を送ってゐる始末だ。君のゐた頃を何度もなつかしく思ふ。
(略)
渡辺庫輔(1901−1963):長崎の郷土史家。長崎県の生まれ。報国中学卒。1919年長崎を訪ねた芥川・菊池寛を知り、上京しては芥川の指導を受ける。芥川も庫輔の原稿を各誌に紹介している。1922−25年にかけて上京し、田端に住んだが、父の病気で帰郷、のち長崎で郷土史家として大成した。
■1587 6月1日 佐々木茂索 (略)
同憂同歎 二三日中には参上すべし。鵠沼に一月ゐる間の客の数は東京に三月ゐる間の客の数に匹敵す。唯今 又々痔を起し、泉さんより贈られたるお百草を尻へあてがつてゐる。
(略)
六月一日 芥川龍之介
佐々木茂索様
二伸 「春の外套」に対する題など痔を起してゐては考へられん。
(略)
佐々木茂索(1894−1966):小説家・編集者。京都の生まれ。上京後芥川に師事し、菊池寛にも親しんだ。芥川の紹介で「おぢいさんとおばあさんの話」を「新小説」に発表、作家としてスタートを切る。小説集に『春の外套』『夢ほどの話』などがある。「文芸春秋」の編集長をつとめ、第2次大戦後、文芸春秋新社の社長となる。
■1593 6月20日 神崎 清 鵠沼から
何よりも先に御厚志を難有う
君は好い日に来た。あの翌日以来腹を下し従つて痔を起し、一かたならぬ苦しみをした上、とうとう鵠沼のお医者にかかつてしまつた。腹の止り次第一刻も早く帰りたい。僕はもう尾籠ながらかき玉のやうな便をするのに心から底から飽きはててしまつた。菅忠雄君曰痔の痛みなんてわかりませんね。僕曰、たとえばくろがねの砦の上に赤い旗の立つてゐるような痛みだ。わかる?わからなければ度す可らずだ。
六月二十日 芥川龍之介
神崎清様
神崎清(1904−1979):評論家、本名島本志津夫。香川県の生まれ。東大国文科卒。大阪高校時代に「辻馬車」の創刊に加わり、のち池田寿夫・高見順らと「大学左派」に結集、中心メンバーとなる。卒業後は明治文学談話会の創設者の一人として活躍し、その過程で大逆事件に関心を持ち、『革命伝説』などに集成をみた。売春問題についての発言も知られる。
■1597 6月30日 小島政二郎 (略)
冠省御手紙ありがたう。僕目下胃のみならず※大腸加太児を起し居り、お医者に相談した所、痔の手術をするにはもつと営養がよくならねば駄目のよし。する時には岩佐病院へ御紹介を願ふべし。兎に角唯今はひょろひょろしてゐます。実は君の手紙を見てあの長さに感謝すると同時にあの長さをものともしない君の■力に敬服してしまつた。何しろ僕は七月になると云ふのに足袋をはき足のうらへカラシを貼り、脚湯まで使つてゐるのだから。もうこれでおしまひ。
(略)
■:白へんに鬼(表記できませんでした。)
大腸加太児:大腸炎。大腸の炎症。殊にS字状部に起こり、下腹部の疼痛と頻繁な下痢を伴う。
小島政二郎(1894−1994):小説家・随筆家。東京の生まれ。慶大文学科卒。下町に取材した「睨み合」で「三田文学」主幹の沢木四方吉に認められる。鈴木三重吉の「赤い鳥」の編集助手として童話を書き、三重吉の紹介で芥川や菊池と交流する。「眼中の人」はその記録である。のち「人妻椿」などの通俗小説で人気を博す。
■1634 11月10日 佐々木茂索 (略)
(略)
この頃の寒気に痔が再発。睡眠薬の量は増すばかり。
(略)
■1643 斎藤茂吉 鵠沼から
冠省 原稿用紙にて御免下さい。毎度御配慮を賜り、ありがたく存じます。オピアム毎日服用致し居り、更に便秘すれば下剤をも用ひ居り、なほ又その為に痔が起れば座薬を用ひ居ります。中々楽ではありません。
(略)
斎藤茂吉(1882−1953):歌人。山形県の生まれ。東大医学部卒。医師業のかたわら作歌を志し、伊藤左千夫に師事、「アララギ」の中心的同人となる。歌集に『赤光』『あらたま』『白き山』など、歌論に芥川に大きな影響を与えた『童馬漫語』、評論に『柿本人麿』などがある。
■1647 12月12日 佐々木茂索 (略)
小説かけたりや、僕は今二つ片づけ三つめを書いてゐる。捗どらず。痔猛烈に再発、昨夜呻吟して眠られず。
(略)
■1648 12月13日 斎藤茂吉 鵠沼から
(略)
一昨日は浣腸して便をとりたる為、痔痛みてたまらず、眠り薬を三包のみたれど、眠る事も出来かね、うんうん云ひて天明に及び候 以上
(略)
昭和2(1927)年
■1697 3月28日 斎藤茂吉 (略)
(略)
この頃福田大将を狙撃したる和田久太郎君の獄中記を読み、(略)アナアキストも中々やるなと存候。(略)殊に「あの霜が刺つてゐるか痔の病」は同病相憐むの情に堪へず、獄中にての痔は苦しかるべく候。
(略)
「芥川龍之介全集 第19巻、第20巻」岩波書店 から引用 |