■本駒込 吉祥寺  茗荷稲荷神社
東京都文京区にある本駒込吉祥寺の境内に茗荷稲荷神社があります。山門をくぐってすぐ左手にこの小さな社があります。ミョウガ断ちして祈願すると痔のやまいに効ありとして参詣者があるとのことです。

堂の手前の立看板に次のように記されています。
駒込吉祥寺 茗荷稲荷縁起

当吉祥寺は明暦大火の際府内よりこの地に移り、家康公ゆかりの毘沙門堂脇の庚申塚に茗荷権現あり、寛文年間疫病まんえんの折祈願の人絶えず、特に痔病の根治に霊験ありとされ、茗荷を断って心願するもの多し。去る戦災に諸堂焼失せるも昭和二十八年この地に再建、堂裏にある茗荷権現碑は下総国府台八十右ェ門なる者が文久年間建立したものなり。

駒込吉祥寺

堂裏にある茗荷権現碑
曹洞宗・諏訪山吉祥寺は、元々現在の水道橋あたりにあったものが、「明暦にの大火」の類焼にあい、現在の地に移りました。府内有数の巨刹でした。八百屋お七の「お七吉三の比翼塚」、「二宮尊徳、榎本武揚、川上眉山の墓」、河村光陽の「かもめの水兵さんの碑」もあります。吉祥寺の本尊は、釈迦如来。武蔵野市の吉祥寺地区はかつて当時寺が開墾して別野地(べっしょち)とした場所です。
参考:「江戸東京はやり信仰事典」新倉善之編

東京都文京区本駒込3−19−17
都営地下鉄南北線「本駒込」下車 徒歩10分

■蛸薬師 成就院
東京都目黒区目黒の目黒不動の近くに、「信じて願えば何でも治る」といわれる御撫石(おなで石)で有名な蛸薬師成就院があります。この「おなで石」は、大きさが4センチくらいの卵形の黒いつるつるした石で、これで御真言を唱えながら毎日1時間以上(お願い中は「たこ」を食べてはいけない。)患部を撫でるとイボ、たこ、魚の目、ひふ病、眼病、脱腸、、ぢ疾、神経痛、内臓の病、ほか諸病に効能があるとされています。
「おなで石」は、本堂にあります。1500円の奉納が必要です。お願いが成就したときは、お石はお返しします。

「おなで石」について、当山の蛸薬師如来縁起に次のように書かれています。
このおなで石秘法は、開山慈覚大師が唐に求法の時、五台山において、伝授請来され当山代々の住持の秘伝とするところです。
このご利益は、江戸時代から特に知られ、幕府の老中となって寛政の治をなした松平定信(白河楽翁公)はその著書、「花月草紙」の第五巻に「蛸薬師」の1項をもうけ、いぼのとれたことの不思議な話を、数百字にわたって驚異と感激をもって記しています。

蛸薬師成就院の山門 本堂 蛸の絵馬

秋葉山別当 蛸薬師 成就院は、858年(天安2年)に慈覚大師円仁が開山した寺院。徳川三代将軍家光が再興。再興の際に、徳川発祥の地にゆかりの遠州の秋葉大権現を勧請し、併祀されました。

東京都目黒区下目黒3−11−11
JR「目黒駅」から900メートル
目蒲線「不動前駅」から300メートル

■本性寺 題目堂
墨田川のほとりにある日蓮宗の寺。入り口の門柱に「ぢの神」との表示がされています。
秋山自雲尊者、秋山自雲功雄尊霊とも呼ばれる秋山自雲は、延享元年(一七四四)痔病に苦しんで亡くなったという岡田孫右衛門の法名です。岡田孫右衛門は、摂津国川辺郡小浜村(一説に安倉村)の造り酒屋に生まれ、姓は狭間といい、通称を善兵衛といいました。長じて江戸へ出て、酒問屋、岡田孫左衛門の所に奉公しましたが、見込まれて岡田家を継ぎ、岡田孫右衛門と改めました。三十八歳の時に痔病を患い、治療につとめましたが全治せず、ついに浅草山谷本性寺の題目堂に参籠して、法華経を唱え、病気の祈願につとめました。しかしその甲斐もなく、七年間痔病に苦しみ、延享元年(一七四四)9月21日四十五歳で亡くなりました。臨終に際して、『願わくば後世痔疾痛苦の者来って題目を信仰せば、われこれを救護し利益を垂れん』との誓願を発して瞑目したと伝えられます。その後、痔を患う友人が、墓前に願を垂れたところ、完治したといい、その噂はたちまち広がって、痔疾平癒の信仰が生れました。はじめは浅草の本性寺に祀られ、後に摂津国小浜村本妙寺と京都東漸寺に分祀され、更に後には、全国の日蓮宗寺院に分祀されていきました。」(奥沢康正「京の民間医療」から引用)
痔の信仰を取り上げた文芸作品としては、寛政10年(1798)江戸町奉行に任ぜられた根岸鎮衛(ねぎしやすもり)が、城中や市井で見聞した興味ある事柄を10巻に纏めた「耳袋」(みみぶくろ)の巻の四には「痔の神と人の信仰おかしき事」と題し『浅草今戸穢多町に痔の神とて石碑を尊崇して香華などを供え、祈るに従いて利益平癒を獲て今は堂など立ちて参詣するものあり。』という一説がある。(衣笠昭 大腸肛門病学会雑誌「わが国古来よりの肛門疾患治療の変遷」から)

門柱に「ぢの神」とある 秋山自雲の墓 題目堂

ちくま学芸文庫 新訂 東都歳時記」(江戸時代の「東都歳時記」が原本)には、次のように書かれています。
「浅草山谷町本性寺、秋山自雲霊神開帳(痔疾を憂ふるもの、当社へ祈願をなすに果たして応験ありと言ふ。正・五・九月の二十日・二十一日には千巻陀羅尼修行あり)。」

東京都台東区清川1−1−2
浅草駅からバス(都立産業労働会館入口下車)

■宗賢寺
宗賢寺(そうけんじ)は、痔の呪い(まじない)寺としても信仰を集めています。
「当初、毘沙門天を祀っていたが、元禄時代に旗本の推挙でお寺となった。
痔の呪い(まじない)は、痔に悩んだ人に封じ祈祷として現住職の祖父が大正時代からはじめた。毎年十五夜のとき(日はきまっていない)、9月はじめから10月に行っている。千葉県八千代市の長妙寺でも痔の呪いを行っているが、宗賢寺が伝えた。」(宗賢寺住職のお話)

入口 「日蓮宗宗賢寺」とあります。
上野池之端

■勘助地蔵又は奴地蔵

港区の愛宕にあります。

二つの高層ビルに囲まれた愛宕グリーンヒルズにある青松寺の墓地に勘助地蔵があります。この青松寺は、大田道灌が開基したといわれ、江戸時代には、品川の泉岳寺、板橋の総泉寺とともに曹洞宗江戸三か寺の一つにも数えられました。
勘助地蔵は、青松寺の裏手の日本庭園を抜け、さらに上に上がると墓地があり、墓地の入り口近くの正面にあります。そこは大都会の真中という場所ながら、緑に囲まれた静寂な空間です。
この勘助地蔵の由来は、下記の東京都教育委員会が記した立て札のとおりですが、そのほか痔にまつわる事柄があります。
この勘助は、痔の病をもっており、この地蔵を拝むと痔によいという信仰が生まれ、病の癒えた人は勘助の好きだった酒を竹筒に入れて奉納したとのことです。今も訪れる方がいるようです。
また、この勘助地蔵を見ると、頭の部分が削られています。お寺の墓守の方にお聞きした話によると、参拝する方が、祈願成就のため削り取っていくとのことでした。

青松寺入口 愛宕グリーンヒルズに青松寺があります。

勘助地蔵がある場所とは、全く離れた場所にこの立て札があります。

槍持勘助の墓

勘助(芦田義勝)は美作国(岡山県)津山藩松平家の足軽であった。主人越後守ノ宣富の槍は長く、大きく、重く、道中供先にあって、倒して打首にあったものがあった。そこで、義侠心のある槍持の勘助は、身をもって難儀をあとに伝えまいと槍の柄を約1メートルほど切り落としその場で切腹した。元禄15年(1702)9月であった。
そののち松平家では再び切られるのを恐れて槍の柄に鉄の筋金を入れたという。勘助の墓は人の形に作られ奴地蔵とも呼ばれた。
昭和50年12月 東京都港区教育委員会

墓地の入口、正面にあります。
勘助地蔵です。
頭の部分が削られています。

岡山県津山市のホームページには、次のように書かれています。
「越前松平家伝来の大熊毛槍は有名ですが、それにまつわる槍持勘助の話あまり知られていません。この大熊毛槍は十六槍と呼ばれた大身で、大名行列の花形でした。しかし、それを片手で持って権現様(徳川家康)御総領家の津山藩としての威光を輝かせるには、尋常な腕力、体力では耐えられません。その酷な大役を長年勤めた勘助は、歳とともに後継者に心を痛め、殿様の名誉を傷つけないためにもだれにでも持てる槍にしておこうと、忠義の一心で三尺を切り落とし、自分はすぐさま責任をとって自害しました。赤穂義士討ち入りの前年のできごとです。
 『柄と腹を切って末世に残す槍』と後々川柳にうたわれた槍持勘助ですが、津山の殿様はその話にたいへん心を打たれ、武家奉公人の最下級者でありながら、侍の格式をもって、勘助を青松寺に葬送したと伝えられています。」

勘助地蔵又は奴地蔵
東京都港区愛宕